昭和40年11月22日 朝の御理解
椛目にご親縁を頂いておる信奉者の多くの方に、言えることだと思うんですけれども、今こそ、神様が、信心を分らせて頂くのも、力を頂くのも、ま、いうなら、改まらせて頂くと、神様に迫られるようにして、そのチャンスを、この時期を逃してはならんぞと、こう、言うて頂いておるような時期は、またと無かろうように思うですね。それは、ある人は申しました。いつもがチャンスだと、いったようなことを申しますけれども、やはり教祖の神様が仰るのに、時節ということ。時節を待って、おかげを頂かれれば良かろうという、いわば、チャンスを待って、おかげを受けれということを教えておられます。それは、椛目全体ということを申しましたけれども、銘々がそこに、自覚しておる。「ね」。例えていうなら、ま、改たまらにゃ、改まらにゃと、日頃思っているのだけれども、「ね」。神様は、それを、求めておられることを良く分かってはおるけれども、なかなかそこに踏ん切りがつかんで、改まりが出来ないでおる。そういうような自分自身、神様に迫られておるというようなものを、私は、全部が全部感じれれる事実があるのだけれども、そういうような希薄な人。そういう思いの少ない人は、まあ、だから仕方がない。椛目にご縁を頂いておっても仕方がないけれども、もう一つ、ここんところをですね、おかげを頂かせてもろうて、一つ本気で、おかげを頂かせてもらわんといけませんね。例えて、それは、その、先に改まっても良かろうけれども、それから先に、発奮したり、発心したりしても良かろうけれども、「ね」。時節ということが大事だということをですね。もう、その時では、役に立たんというときがあるんです。例えよし、前世に立ち返っても、もう、その時には遅かったというようなことがあるんです。これは、お芝居の、筋なんかというものは、まあ、極端から極端を行くわけなんですけれども、その、やはりそういうようなことがありがちなのです。あの、義経千本桜のすし屋の段というところがありますよね。寿司屋の長男に生まれました、伊上の権太、あれやっぱ事実らしいですねえ。私その、家内の、うー、母の姉妹が皆あちらに居りますもん。で、あちらに参りましてから、今でもあの、吉野に寿司屋がありますし、それから、ちょっと離れたところには、伊上の権太のいわば、墓がありますし、すし屋の庭には、小里の「おー」何、何とか塚といったようなのがあります。ですから、それはそういう歴史を背景にですね、そういうちょっとしたエピソードを、まあ、劇にしたものであろうと思うのですけれども、まあ、それが、例えば、お芝居で、本当の荒唐無稽のものでありましてもです、やはりあの、感じなければならないと思うですね。平家にゆかりのある、いわゆる、ご恩になっておるその主人を、かくまっておる。そこへ、奥さんと子供が尋ねてくる。現地ではそれを、鵜の目鷹の目で探しておる。「ね」。それでも、どうしてもその、助けたいと思う。「ね」。それをいわば、どまぐれ息子であるところの、長男の伊上の権太が、これは、もう別に家を出ております。家内、子供連れて外へ出ておる。そして、家に今かくまわれておるのが、ま、その、平家の誰彼だということを、知ってそれを注進すれば、褒美の金にありつける。と、こう思う訳なんですよ。で、それも、たまたま母親に無心に来て、そのお金を無心に来た時にです。その、父親が、そのために大変な、難儀をしておる、苦労をしておる、父親の心境を知るような事件がある訳なんですよ。「ね」。その、取替えの首をもって、その、これを、これこれの首だと言うてその、出さしてもらう為に、すし桶の中にあの、首ば入れてある。「ね」。それを伊上の権太がお金だと間違えてから、持っていって初めて、父親の心中を知るわけです。「ね」。こういう、いわば、父親が難儀なところに立ち至っておるわけだから、それで、いわば、前身に立ち返るわけなんですね。そして、自分の家内と子供を殺して、その、それを御台所と子供の、に、仕立てるわけですね。殺しはしません、その自分の嫁ごと、自分の息子をです。御台所に仕立て、若君様に仕立ててです。そして、本当のその、御台所と子供は落としてやってるわけです。「ね」。そして、いよいよその、検視がありますときに、自分が召し取った褒美の金が欲しさに、その、親父がかくまっておるそれを、自分が捕まえて、ここへ連れて来たと言うて、ま、連れてくるわけなんです。「ね」。自分の嫁後、自分の子供の着物を着せて、その、落としてやり、そして、それを自分の嫁後に、自分の子供に着せて、縄を就けてから、舞台に引っ張ってくるところでございますですねえ。すると、父親はもう、本当に、そうしているんだとこう思う訳なんです。で、父親が、その、極道物だと言うてその、刺して殺すわけです。「ね」。その時に、いわば、これが貴方の孫ぞ、貴方の嫁ぞとこう、あのう、権太が申しますときには、もう、突かれた後でしょうが。「ね」。いわば、権太は、父親の、自分の家の危機を救ったわけなんです。自分の嫁後と、可愛い子供を犠牲にして、自分も前身に立ち返ってです、いわばその、父親の顔も立ち、恩義のある式への忠義も出来た。そして、最後の孝行の仕納めと言うて、まあ、いわば、本当の仕納めになるんですけれども、さ、前身に立ち返ったときにはもう、肉親の父親から刺されておるといったような、あれはお芝居なんですね。
だから、チャンスということがあることが分かるですね、そういうふうなことで。これは、確かにそうです。神様がおかげを下さろうとしてです、もう、本当に、お陰を下さろうとしてから、神様が迫るようにです。さあ、ここは改まらなければ神様とても下さることの出来ない、一つの法則というものがあるんです。それをどうでしょう、その時期を、踏み違えてから、「ね」。違った時期に、それが済んだ後に、神様のご都合も済んだ後に、改まったところで、それは改まっただけであって、「ね」。それは、役に立たないといったようなことになっては、馬鹿を見るのは、この、誰かというと、私共だけではない、神様自身も同じ。私共も、後の祭り、ということになります。「ね」。本当に、それを、一つ本気でおかげ頂きたい、そして、ここんところを一つ改まって、一つおかげ頂きたいと。例えば、そういうように感じておると言うことは、もう、すでに神様に迫られておるということですよ。今の椛目の方たちがです、本当に、そこのところにです、発心させてもらい、気付かせてもろうてです、「ね」。椛目一体火の玉のようになって、打ち向かうということは、先ず、そういうような事にです、火の玉のような思いで、改まるところは改まらせてもろうて、その、神様の願いに、答えていくというようなおかげを頂くときに、本当のチャンスが生きてくるということになるんです。今こそ、椛目にとって時節というのは、またとなかろうと私は思うのです。
昨日、古谷さんの奥さんがお参りして見えましたが、何か大きな仕事の、それをしてくれという話し合いで、小倉のほうへ、迎えに来たから、昨日、一昨日、ご一緒にあちらへ、おい出られた。ところがその自動車が、四重衝突した。勿論、おかげでまあ、古谷さんの車は、軽傷で済んだらしいですけれども、やはり、小倉のほうから帰られない。病院にいって、レントゲンに掛かられたけれども、ま、内出血をしておるという模様もないから、明日は帰られるだろうといったような、電話だったらしいです。昨日、何からかにからもう、本当に神様が、例えば、その古谷さんなら古谷さんに迫っておられるような物を感じますですね。そして、ここで驚かれるのです。四十五人の葬式をしておるというお知らせを頂かれたそうですね。ということは、もう、私がいつも申しますようにですね、椛目で五十人の人が立ち上がったら、今度の御造営は出来ると私は申します。本当に五十人の人が立ち上がったら、本気になったら。「ね」。いつも私が言うように、いわば椛目にこそ、今、四十七士がその本懐を遂げるチャンスはもう、又とないということ。「ね」。例えば、古谷さんの、昨日の、原さんとこへ見えてからの話であったそうなんですけれども、「ね」。本当に、まあ、秋永先生たちが喧しゅう言われて、その、喧しゅう言われるとばーっかり思うてありますけれども、喧しゅう言われたからこそ、例えば、ほんなら現在の設計でも、五辺も六辺もやり変えたからこそ、あれだけの例えば、物が出来とるとでしょうが。又、一部屋、一部屋の事だってそうなんです。だから、もうちょっと本当いやあ、素直に聞かっしゃらあ、秋永先生たちも、秋永先生だけじゃありませんけれども、私ども、四十五人のものも助かるのです。椛目として役に立つ四十五人として、その人達の心を、傷つけたり殺したりしてござるということだと私は思うのです。「ね」。ま、どうした強情な人じゃろうか。そりゃ、向こうから向こうまでには、理由もございましょうけれども、「ね」。一つそこんところをですね、あの、神様は教えて下さったのじゃなかろうかと私は思うのです。それで、その、本当に、あなた方が、例えば四十五人のものの心を、例えば、傷つけたり、殺したりするのではなくてから、本当に、そこんところを生かしていくためにです、あなた方二人が、もう一人、もう一丁、四十七士の中に入ったら、本当に四十七士になるじゃ無いかというようなことです。四十五ということは、そのために椛目全体のものが、始終苦労しておるということ、業をしておるという事なんです。「ね」。ですから、貴方自体がそこんところをもちっと素直になりゃ、その日暮らしがということでも、それでいいというのならです、「ね」。しゃっち、その、こうでなからにゃならんということではなく、たったこれだけのことを、一晩も掛かって、納得させんならんような事せんでもです。「ね」。そうですねと言うて、ほんなら、その、こちら側の言い分を聞いてくださればいい。例え、一つの例を申しますと、うー、今度の一部屋、もう、二晩、高橋さんと、秋永先生が掛かってから、一晩は、ここででしたがその、検討いたしましたですもんね。あの、若先生の部屋になるという、あの部屋、たとえ、一部屋にしてもそうです。それで、丁度、二日目には、古谷さんも来てござったから、もう、こんなふうで昨日から、練ってから練って、練り上げて、こういうようにしとりますがと。いいですねと言うて、自分も、納得しておられたんです。だから、そう出来るもんだと思うてたら、今度は、全部がらーっと、変えてしもうてからですね、もう、わざわざそれも、二晩も自分もかかって、設計そこんところをして、図面を画いてきとんなさるです。もう、それはもう、秋永先生が、がっかりするというですたい。「ね」。そしてほんならそれが、私共が、素人が考えとったつより、より良いならばってん、これでは可笑しいじゃないですかと、指摘して、やっぱ素人が言うようなふうに変えてきてある。やはり素人の人のでは、やはりプロは、プロでのその一つの体面があるといったような、何か知らんけれどもですね、もう、わざわざそうやって、その、先生どん、二日も掛かっておる。それに自分も最後の日には立ち会って、それが良いと言うて、自分もしてあるから、安心しておいたところが、実際はガラッと変わってしまっておる。そして、えー、後の大工にその図面を渡して、帰りがけここに寄っておられた。先生こげな風にしましたからと。それは、図面を見りゃ、立派です。私は、分かりません。ですから、はあ、これは立派に出来ましたねえと言うたら、福岡に帰ってから、親先生もよかち言いなさったと、こういうわけです。もう、一事が万事そういうふうなんですね。ですからそれを又、その言うもんですから、古谷さんとしては、その、喧しくいうという風に聞こえるのかも知れません。「ね」。けれども、そんなら、こういうふうなですね、例えば、スムーズさを欠いておるということの中にもです。椛目全体のものの心が死んでおる、ま、そのために殺されておるわけじゃなかろうけれどもです。「ね」。例えばその傷つけられ、傷つけようとしても、殺そうとしても、こちらが、生き生きとしてから、それに答えていくだけの信心があれば問題ないということなんですよ。「ね」。それには、椛目全体がよろよろしておるから、そんなことだという事なんです。神様の働きをまだ、頂けていないのだと言う事になるのです。「ね」。これは、いわば、古谷さんだけの問題じゃない。それがぐずぐずしておるということだけではない。それこそ、神様が椛目全体に迫るようにして、「こう、ぐずぐずしていいのか」「信心がぐずぐずしてはいけんじゃないか」この際、例えば、精進しなければ、改まなければ、本気にならなければ、いつなるか。と、こう言うて下さっているような気が致します。そういうようなことが済んだ後に、よし、例えば、前世に立ち返ったということになりましてもです。「ね」。互い違いになるのではなかろうかと私は思うのです。「ね」。古谷さんあたりもです。ほんにそうじゃったと、たとえば、今こそ、まあ、前世に立ち返って悪い心はなさいません。ただ、古谷さんたちにしたところで、より良くという気持ちで、一生懸命なのですけれども、そこに、例えば感情が少し出たりです。「ね」。意地になったりといったようなものがです、出らんで済むだけの、お繰り合わせを頂かねばならんのです。例えば、今度の、そうした四重衝突なんていう事故なんかもです、それは、古谷さんだけのものではなく、私共全体が、やっぱり感じなければいけないとこう思うのです。確かに、四十五人のものの心を暗くしたり、いわば、殺したり、傷つけたり、いわば古谷さんが葬式しなさることになっても、まだないということですね。取る前にです。ほんなら、あんたがた夫婦が、この四十七士の四十五人の中に加盟してご覧、四十七士に立派になるじゃないかと言うて、昨日、話たことでございますけれどねえ。「ね」。本当にそうなんです。その四十七士の物語、打って一丸になってその時こそ、本懐を遂げなければならない、もう、チャンスにせまられておる。またとないチャンスなんです。言うなら、この際、力も受けさせてもらおう、お徳も受けれれるチャンスを神様が下さっておるんだけれどもです。それを、いつまでも、いつまでも踏ん切りをつけきらない。自分で分かってあり、ここだと指摘されておって、そこんところを、よう、改まりもしないということではです、何時まで経ってもおかげは受けられない。時期とか、チャンスといったものは何時もはない。「ね」。時節を待っておかげを受けよと、こう仰る。私共が、おかげを頂きたいという時節がです、ここには、四十五人、いわゆる椛目全体の上で言うならば、椛目を中心の上にです、そういうチャンスが到来しているんだというふうに私は感じますが、皆さんは、どう思われるでしょうか。「ね」。それどころじゃないと、思うて立ち上がって下さる方が、四十七人あれば、椛目の今度の御造営、神の願いであるそのことは、いわば、有り難く成就になると私は確信いたしますですね。どうぞ、その後からぐずぐずして、何とはなしに出来た。「ね」。ふん、あの時に、改まらにゃ出来なかった。何かそこに、事件が起こった。さあ、その時改まったんじゃです。いわば、義経千本桜の伊上の権太じゃないですけれども、「ね」。前史に立ち返ったときには、もう、自分が死んでいかねばならないと言った様なことではです、つまらんことではないでしょうかね。どうぞ。